第11回 「石巻発、寄付車でつくるやさしい未来 」 ― 神戸元気村から受け取ったバトンを胸に、東日本大震災、丸森、能登での災害を駆け抜けて ―

講 師:吉澤 武彦 先生(一般社団法人日本カーシェアリング協会 代表理事)
会 場:丸森町大内まちづくりセンター(熱中小学校丸森復興分校) 

開催日:2026年1月17日(土)

はじめに:一通の電話から始まった「やさしい未来」への挑戦

2026年1月17日、宮城県丸森町の大内まちづくりセンターにて、心温まる、しかし非常に力強い授業が行われました。登壇されたのは、一般社団法人日本カーシェアリング協会の代表理事、吉澤武彦先生です。
吉澤先生は、2011年の東日本大震災を機に、被災地での「車の支援」という、それまでの日本にはなかった新しい助け合いの仕組みを築き上げてこられました。石巻、丸森、そして能登。数々の被災地を駆け抜けてきた吉澤先生の言葉には、現場でしか得られない重みと、未来を切り拓く希望が詰まっていました。

1.原点としての石巻――「6万台」という絶望の中で

吉澤先生がまず私たちに見せてくださったのは、2011年3月11日の映像でした。そこには、津波によっておもちゃのように押し流されていく無数の車の姿がありました。

「車が津波で流れていましたよね。あの風景でしたよね。6万台の車が流された石巻。多分あの歴史上、日本では一番車の被害が大きかった。そういう風なものだったと思います」

石巻市という一地域だけで、6万台。地方で暮らす人々にとって、車は単なる贅沢品ではなく、仕事や買い物、通院を支える「足」そのものです。その生活基盤が根こそぎ奪われた光景を、吉澤先生は活動の原点として胸に刻んでいます。

この未曾有の事態の中で、吉澤先生に一本の電話をかけた人物がいました。吉澤先生が「師匠」と仰ぐ、神戸元気村の代表、山田バウ(山田和尚)さんです。バウさんは、阪神・淡路大震災の際に「神戸元気村」を立ち上げ、ボランティアの先駆けとして活動した伝説的な人物です。震災から約1ヶ月が経った4月10日頃、バウさんは吉澤先生を東京タワーの下に呼び出しました。

「ちょっと1つの提案したいことがあるから、東北の帰りにちょっと寄ってくれへんか」

そこで提案されたのが、「仮設住宅でのカーシェアリング」でした。当時はまだ仮設住宅すら建っていない時期でしたが、バウさんは先を見据えてこう言いました。

「行政の指導で自治会が形成されて、そこに支援団体がいろんな支援を提案していくようになるから、そこにカーシェアリングを提案していくとみんな助かると思うよ」

吉澤先生は、その言葉を聞いて直感しました。

「あ、車をシェアするんか。いいな。これはみんな助かるだろうな」

その時、吉澤先生は迷うことなく、このバトンを受け取ったのです。

2.無謀と言われたスタート――「車を知らない男」の情熱

活動を引き受けた吉澤先生でしたが、実は驚くべき事実がありました。
「私、車運転できなかったんです。車のこと何も知りません。だから、あの、まあ、車集めたらなんとかなるかなという、そういう思いで、始めてきました」
車の専門家でもなく、運転すらできない。そんな「素人」の吉澤先生がまず行ったのは、本屋で『会社四季報』を買うことでした。当時大阪にいた吉澤先生は、四季報に載っている一部上場企業を、自ら自転車を漕いで一軒一軒訪ね歩いたのです。
「会社の内線電話をかけて、社長秘書の方をお願いしますと言って。社長に直接いただきたいものがあるんですけれどと言って。車を寄付して被災地に届けよう、という募集をやっていきました」30歳そこそこの、実績もない、お世辞にも立派な格好とは言えない若者が突然現れて「車をください」と言っても、門前払いされるのが普通です。「うちはリースなので持っていません」と断られる日々が続きました。それでも先生は「大きい会社に言うたら1台ぐらいくれるやろう」という一心で、電車の中から車がたくさん並んでいる会社を見つけては次の駅で降り、飛び込み営業を繰り返しました。

そんながむしゃらな姿が誰かの心を動かしたのでしょう。「あいつ、車を探しているらしいぞ」という噂が広まり、ついに京都の物流会社の社長さんが「営業車を1台持っていけや」と、第一号の車を譲ってくれました。2011年5月のことでした。

3.師匠から学んだ「動くこと」の哲学

吉澤先生の活動を支えているのは、師匠であるバウさんから教わった哲学です。授業の中で吉澤先生は、バウさんの言葉を一つひとつ噛みしめるように紹介してくださいました。
バウさんの教えを一言で集約すると、それは「動け」という言葉に尽きます。

  1. 「1人になれ」:自分の人生なのだから、自分で考え、判断し、行動しろ。他人の意見を聞かないと決断できないのは、自分の人生を生きていないのと同じだ、という教えです。
  2. 「馬に乗ってから考えろ」:方向性が決まったら、まず動き出せ。動きながら調整していけばいい、ということです。
  3. 「タイヤのように動け」:独楽(こま)は漢字で「一人で楽しむ」と書きますが、その場で回っているだけでは何も変わりません。接地面を変え、周りを変えて進んでいくタイヤになれ、と教わりました。
  4. 「ひな型を作れ」:世の中にない仕組み(ひな型)を作ることこそが、最大の社会貢献である。

吉澤先生は、石巻でこの「ひな型」を作るために、役所や運輸局と粘り強く交渉を続けました。当時は個人間で車をシェアする仕組みなど、ルールすら存在しなかったからです。そして、吉澤先生の33歳の誕生日である9月30日、ついに当局から「オッケー」の返事が出ました。
「すごい嬉しかったですね、本当に」と語るその笑顔には、当時の苦労と喜びが凝縮されていました。

4.日本カーシェアリング協会が支える「3つの柱」

石巻から始まった活動は、今や約650台の寄付車を抱える組織へと成長しました。吉澤先生は、寄付された車を有効に活用するために、3つの事業を展開しています。

① コミュニティ・カーシェアリング

仮設住宅や復興公営住宅などで、住民がルールを決めて車を共同利用する仕組みです。吉澤先生は、この活動の真の目的をこう語ります。 「車を1台、こちらにお持ちすることで、その車の使い方であったりとか、あそこのおばあさんを、ま、一緒に誘っていこうとか、会話がまたそこで生まれてコミュニケーションのきっかけになればっていうのをそういうのも狙っています」。 震災から15年が経った今でも、石巻では11の地域でこの活動が続いています。住民たちが「あの時の助け合いが良かったから」と、自発的に継続しているのです。

② ソーシャル・カーサポート

生活困窮者やNPO、地域おこし協力隊の方々へ、低額で車を貸し出す仕組みです。地方では車を失うと仕事に行けなくなります。
「安く車を出して生活再建を応援するっていう風なカーリースです。これがなければちょっともう生活保護になっていたかもしれないようなので助かりました、という声もいただいています」

③ モビリティ・レジリエンス(災害支援)

災害時に被災者や支援団体へ、無償で車を貸し出す活動です。東日本大震災以降、これまで34の災害に対応し、延べ1万台以上の貸し出しを行ってきました。

5.丸森、そして能登。現場で交わされる「ありがとう」

2019年、ここ丸森町を台風19号が襲った際、吉澤先生たちは65台の車を運び込み、延べ103台の貸し出しを行いました。当時のニュース映像では、被災された方が「ありがたいです。本当に車がないと買い出しもできないですから」と、安堵の表情で語っていました。

そして2024年の能登半島地震。日本カーシェアリング協会は過去最大規模となる527台の車を投入しました。能登は範囲が広く、道路状況も悪かったため、9箇所もの拠点を設けて「そばで貸し出せる体制」を作りました。 「両親が職場に行けるっていうだけでもすごくありがたいですし、その負担も大きく軽減するので本当に嬉しく思います。本当にありがとうございます。感謝ですね」

吉澤先生が強調されたのは、この活動の圧倒的なコストパフォーマンスです。能登での1年間の活動経費は約7,000万円。これは、災害ボランティアセンターのレンタカーにかかった費用よりも安いのです。 「全部寄付でいただいた車でやってるし、非営利組織ですのでコストを抑えながら活動している」。 このノウハウを国の制度に組み込めば、もっと多くの人を救えるはずだと、吉澤先生は政策提言も行っています。

6.人生はレストラン――「未来をオーダーしよう」

授業の終盤、吉澤先生は再びバウさんの不思議な例え話を引用されました。

「人生はレストランなんやと。カレーライスを注文したらカレーライスが来るやろと。スパゲティ食べたい時にハヤシライス頼んでもスパゲティは来えへん。だからちゃんとオーダーせなあかんねん。その夢をちゃんとオーダーして動き続ければ実現する。世の中そういう風にできてるから。ただオーダーせんやつが多いんや」

吉澤先生がオーダーした夢は、「東日本大震災規模の災害が起こっても、しっかり対応できる仕組みを作る」ことです。そのために必要なのは4,000台規模の支援体制です。
「そんなにたくさんの車、どうやって集めるの?」という疑問に対し、先生は非常に明快な答えを持っていました。 日本で1年間に手放される車は、なんと1,000万台。そのうちのわずか0.1%(1,000人に1人)が「寄付」を選んでくれるだけで、1万台の車が集まるのです。
「それぐらい車の寄付っていうのが当たり前になってくれたら、いろんな困ってる人が助かるようになるんです」

7.丸森のスピリットと「駆け橋ドライバー」

今回の授業の大きなハイライトは、丸森の「駆け橋ドライバー」の皆さんの登壇でした。全国から届いた寄付車を、自らハンドルを握って被災地まで届けるボランティアの方々です。

丸森の応援隊長、石塚さんは、丸森が被災した時のことを振り返ってこう語りました。
「フェリーの口がわーっと開いて、そこから佐賀ナンバーの車がどしどし降りてきて。その瞬間に、ああ、この車で丸森の人たちは助けられるんだって、すごく思えて。そこから私の駆け橋ドライバーが始まりました」

「支援を受ける側」だった丸森の人々が、今度は「支援をする側」として、片道700キロもある能登へ車を届けているのです。 別のドライバーの方は、「全国から来てくれたことにすごい心が震えて。自分も何かできることがしたい。一泊二日の最短で行って帰ってこられるけれど、その車が被災した人の第一歩の力になるんじゃないかなって」と、目に涙を浮かべながら語ってくれました。

吉澤先生は、丸森のメンバーが独自に寄付を集め、能登への搬送費を工面していたことを今回初めて知ったそうです。
「僕もやっぱり気づいていないようなことがやっぱり起こってるんだなという風に改めて思いました。本当になんか、今日は来てよかったなという風に思いました」

結びに:私たちにできること

吉澤先生の授業は、単なる活動報告ではありませんでした。それは、誰かから受け取った優しさのバトンを、絶やすことなく次の誰かへ繋いでいくことの大切さを教えるものでした。

「丸森のスピリットもしっかり胸に抱きながら、これからも取り組んでいきたい」

吉澤先生が最後に語ったこの言葉は、会場にいた全員の心に深く刻まれました。神戸から石巻へ、石巻から丸森へ。そして丸森から能登へと繋がったバトンは、今、私たちの手の中にあります。

車を手放すとき、「売る」「廃車にする」に加えて「寄付する」という選択肢を思い出すこと。あるいは、自分にできる形で活動を応援すること。そんな一人ひとりの小さな「オーダー」が積み重なることで、吉澤先生が描く「やさしい未来」は、きっと当たり前の景色になっていくはずです。

吉澤先生、そして丸森のドライバーの皆さん、素晴らしい学びと感動をありがとうございました。

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