第31章 仙道富士郎さんの ‘転んでもただでは起きない’ 運の強さ

 東日本大震災後の宮城県雄勝町の復興については第25章の立花貴さんで書いたが、仙道富士郎さんは山形大学のボランティア隊と来られた際に雄勝町でお会いした。

2011年、宮城県雄勝町での出会い 左から2人目が仙道富士郎さん

 仙道富士郎さんは元山形大学学長で、医師免許をお持ちということから、2015年に山形県高畠町に開校した熱中小学校の ‘保険室担当’ をお願いしている。

 高畠町に突然出現した ‘熱中小学校’ なるものではあったが、仙道さんの信頼からとてもスムーズなスタートができたと思う。山形大学大学院理工学研究科で古川英光教授には廃校の理科室を3Dプリンターの演習室として運営していただき、田中敦准教授にも ‘算数’ の授業でお世話になっているなど先生陣もそろって参加いただいた。

 仙道さんは1965年 北海道大学医学部卒業、米国NIHにて2年間研究に従事した後、山形大学医学部医学部教授を経て2001年同大学学長に就任という経歴だが、仙道先生のご専門は免疫学で、医学部長。そして医学部部長が国立大学学長になられたのだ!

 これは大変失礼ながら、いわゆる本流、多数派ではない人物が担ぎ上げられ、大きな組織のトップになっていく、つまり仙道さんという超優秀な方が熱中小学校の ‘保健室担当’ という遊びにつきあっていただけたのだ。

お弟子さんの西村秀一様とコロナの正しい知識拡散セミナーにも登場いただいた

 2007年に山形大学を退官した仙道さんは、2008年から2010年まで JICAシニア海外ボランティアに携わる。そして2012年からは介護老人保健施設みゆきの丘施設長だ。

2017年4月の高岡熱中寺子屋では「南米の小さな国パラグアイに熱中してしまった男の話」
南米への思いは続く

 元国立大学学長がJICAのシニアプログラムに参加、も驚きだ。

 柔道やテニスで鍛えた仙道さんだが、最近胃癌の全摘出をされたと聞いた。

 そろそろ、抗がん剤の治療も終えて元気になられているだろうか?

 さて、今日は秋田県湯沢市で大間ジローさんの呼びかけで、熱中小学校の可能性を検討する地元の有志の皆様との昼食会に出かけるのだが、連休で秋田新幹線の大曲駅経由の切符がとれず山形新幹線で終点の新庄まで行き、熱中小学校の生徒さんである沼澤さんに湯沢市まで車で送っていただくことになった。

 山形新幹線の ‘つばさ’ が熱中小学校発祥の地である高畠駅を通過するころ、ああ、最近仙道さんにお会いしていないのは寂しいな、と思い出し列車から連絡したところ、戻り時間の夕方お時間をいただけることになった。それではこのシリーズのインタビュービデオ収録をと思い立ち、静かな場所の確保に、幸い友人の和装屋さんである冨田社長にお願いして山形駅近くの本社の部屋を使わせていただける手配も快諾いただいた。沼澤さんは撮影もやってくれるという。

 湯沢市でのランチ会議が終わって新庄駅から山形駅に降り立つと、仙道さんの隣で、熱中小学校の生徒さんである外山さんもいらしていて山菜を手に迎えていただいた。

 仙道さんは機会をいただいては一献傾けていただいていたが、お好きなお酒も理由の一つか、胃を全摘出する癌の手術をされて、抗がん剤治療を終えて落ち着かれた頃合いだった。

「癌の手術前は、(堀田さんみたいに)ヒョイ、ヒョイと過ごしていましたが、今は、今やっておかなければならないことは何か? とか考えるようになりました。「えふりこぎ」という本も出版しました。」

「えふりこぎ」は秋田の方言で「見栄っ張り」という意味だ、仙道さんが児童養護施設「光の子どもの家」の広報誌『光の子』に2007年から2022年まで掲載された連載をもとにまとめたエッセイ集だ。

 なぜ、秋田の方言を? と聞いたところ、仙道さんは幼少期には秋田県西馬音内町で育ったそうだ。盆踊りで有名な西馬音内町はなんと湯沢市の隣町なのだ。

 今日はとても運の良い日で秋田県湯沢市での会合の顔合わせはとても気持ちのいい会で、大間さんのお友達とのプロジェクト体制もしっかりと確認できた。

 それも行きの新幹線で ‘強運の人’ 仙道富士郎さんのアポが瞬時に取れたことで、私も少し高揚していたからだと思い、仙道さんの ‘強運’ をいただけた事に大感謝だ。

 山形駅前の居酒屋で盛り上がった ‘医者の不養生’ については、このビデオをご覧ください:

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です